観音様の歴史


観音様の歴史


龍音寺には平安中期頃に造立された観音菩薩さまが奉られています。これを龍音寺観音菩薩と言います。


中期と言いましても、様式が混在しているために、正確な鑑定が出来ないというだけでありまして、専門家によっても意見が分かれますが、「初期から中期であり、形状からは平安初期と強く言いたい」という鑑定を頂戴します。


現在、静岡県河津町の南禅寺の仏像群が、静岡県最古の仏像と評されていますが、鑑定年時はほぼ同じと考えてよいかと思います。ただし、造りの様式比較からは、龍音寺観音菩薩さまの方が、より古いのではないかなと思うのです。



切画の聖観音像
 

記録を見ますと江戸時代には秘仏として奉られていたようで、七年に一度開帳されていた記録があります。しかし、現在は普く人にお参りする機会をと考え、ご拝観された際に は公開するようにしております。
ただし、法事等が行われていることもありますので、事前にお寺にご連絡下さるようにお願いします。

以下、その歴史を龍音寺ブログからの抜粋します

昭和48年、2度の大火によって寺運が衰退し、すでに本堂もなく荒れ寺となっていた龍音寺に、数少ない檀家が力を合わせ、本堂を再建しました。そして、昭和50年12月、龍音寺住職として、現住職がむかえられ、龍音寺の第六世住職として就任します。この時の龍音寺は、田舎の荒れ寺といった感じであったらしく、その地区でも寺の名前を知っているものすらほとんどいないありさまと聞いております。

現住職が入寺した際の本尊は、虫食いなどが石膏でうめられており、また全体がペンキで塗られていたボロボロの観音様でした。あまりにボロボロの観音様であるため、住職が入寺した際は隅っこに飾られているだけで拝むものなどなかった。

ペンキの塗られた朽ち 果てた観音様を、一目見た住職はこれが一木造りであることに気がつき、「もしかすると相当に古いものかもしれない」と考え、村の記録や寺の伝承などを調べ始めたました。

すると、「伊豆半島の河津に流れ着いた二体の仏像うち一体を安置したもであり、江戸時代と昭和六年の二度の大火も檀家の機転で難をのがれた」という観音様の言い伝えが残っていました。

「もしかすると、この言い伝えの観音様こそペンキの塗られた観音様かもしれない」と考えた住職は、市を通して修繕と保護を訴えた。
この熱意は市の教育委員を 動かし、52年末から53年3月にかけて国立文化財研究所の久間健氏が調査を行ないました。

その結果、「一木彫のものは関東では珍しく藤原中期のものと思われる」と鑑定されました。

しかし、同時に①材質に虫食い状態が進行し寿命はわずか二十年しかないこと、石膏が材質にしみ込み補修が容易でないことが判明したのです。

そこで、沼津市が国宝級の仏像の修理を手がけている奈良の仏像鑑定家、宝田信彦氏に3年の9月と10月の2度にわたる鑑定を行ないました。

その結果は、「天平様式もあれば、弘仁様式もあり、また貞観に近い様式もあり、機内の仏像には見受けられない総合的な形式を持つ珍しい貴重な仏像」であり、「虫害・磨損・稚拙な人工加工により現在の 姿になっているが、幸いにして完全に保存された宝髻や背面、両腕、裳の襞は造立当初の姿に復元する可能性は十二分にある」との鑑定でした。

その後、辻本干也先生にご修復頂き、そのお姿を取り戻しました。
(詳しくは龍音寺ブログへ→ https://ameblo.jp/ryuonji00/254010.html


切画の聖観音像

龍音寺観音菩薩をモデルに切画師風祭竜二先生の手によって切画の聖観音像(二軸)が造られ奉納されています。

風祭竜二先生

リンク
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%A5%AD%E7
%AB%9C% E4%BA%8C

ウィキのページの中で、主な収蔵先として
・曹洞宗、石雲山龍音寺(切画、聖観音菩薩、1993 年)
とあるのが、この観音さまになります。

切画の聖観音像
切画の聖観音像

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